十二番 法蔵寺
ろくどうの すがたとおもえ いままいる ふたむらやまの ろくかくのどう
(六道の 姿と思え 今参る ふたむらやまの 六角の堂)
持統天皇の勅命で行基菩薩が自刻の像を奉安したのにはじまる。その後弘法大師が来錫して真言宗の道場となり、のちに松平氏が浄土宗に改めた。観音堂には六観音も法案されている。(満願寺巡礼資料)
・松平家御霊廟
・三方ヶ原合戦忠死者廟
・近藤勇首塚
観音堂(六角堂)は本堂左手、ご本尊は六角堂の中で秘仏、幟の立っている観音堂で勤行することができます。
観音堂に扁額があったので...
みんな、どこへ行くの?
納得
近藤勇首塚の由来
新選組隊長近藤勇は慶應四(明治元)年四月二十五日、三十五歳で東京都板橋の刑場の露と消えました。刑後、近親者が、埋められた勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい、東京都三鷹の龍源寺に埋葬しました。
また、勇の首は、処刑後、塩漬にして京都に送られ三条大橋の西にさらされました。それを同志が三晩目に持出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に埋葬を依頼することにしました。
しかし和尚は、その半年前から三河国法蔵寺の第三十九代貫主として転任されていたので、法蔵寺に運ぶことにしました。この寺は山の中にあり、大木が生い茂っていて、ひそかに埋葬するのに好適の地でした。しかし当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい、無縁仏のようにして沓華していました。
そしていつか石碑の存在も忘れられてしまいました。
昭和三十三年、総本山の記録等に基づいて調査した結果、埋葬の由来が明らかになりました。
今回、石碑をおおっていた土砂を取り除き、勇の胸像をたてて供養することにいたしたのであります。
法蔵寺 執事(法蔵寺内立札)
こちらは日本語が難解なためそのままで。
首塚よりさらに上に
お詣りを終えて外を見たときに、里の景色が見晴らせる位置にお寺ってありますよね。
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